日記

ものづくりやワークショップなどの様々な活動、
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先日開催した、石瀬の家 鎚起銅器道場開設に向けて、先日3日間渡り開催した、三和土づくりワークショップ。あれから1ヶ月が経ち、土と砂利と石灰を混ぜた三和土も、しっかりと固まり、外は暑いですが、三和土は地面と繋がっているので、素足で上がるとひんやりとしています。
これが、昔ながらの三和土の特徴なのかと、実感しました。

そして、昨日はレンガ積みを、設計してくれた新潟市の建築士の羽ヶ崎章さんと、三和土でも活躍してくれた新潟市の大工 Mercyこと高江昌志さん協力のもと行いました。
鎚起銅器は、バーナーで焼き鈍しをして、叩く。そして、また焼き鈍しをするの繰り返しをするので、その際の防火のためのレンガ積みです。

壁面は、寸法を羽ヶ崎さんが割り出してくれていて、Marcyがボードを貼ってくれています。
そこに、不揃いなレンガたちをどう積み上げてゆくのか相談しながら、接着剤で貼り付けてゆきます。

パンにバターを塗る要領で、薄くも厚くもなく、均一に。
そして、壁にぺたりと。

あとは、組み合わせを考えながら、ひたすらに塗っては貼り付けを繰り返してゆきます。
端の方は、レンガの寸法が合わなくなってくるので、Mercyにレンガを切ってもらい合わせながら貼り付けを。暑い中、外でレンガ切りをしてくれたMercyがいなければ、遂行できなかった作業でした。

こちらが完成形。
先日、漆喰を塗った丈夫の壁とレンガが、雰囲気をとても良くしてくれています。

また、この小屋を立てる際に、燕市のR-craftさんにご協力いただき、遮熱シートを提供していただきました。
その遮熱のお陰で、三和土の部屋は、だいぶ暑さが軽減されました。
夏の作業にお困りの工場は、是非導入されると良いかと思います。

みなさんの力出来上がってゆく、鎚起銅器道場。
構造部分は出来上がったので、これから棚や道具を整えて、本格的な道場運営に向けて、進んでゆきます。

昨年の秋に発売しました、鎚起銅器の本「俗物」が、雑誌TURNS(ターンズ)に掲載いただきました。
俗物製作委員会の編集長である、ツバメコーヒー店主田中辰幸さんの文章です。

書店で雑誌を手に取り、記事がどこにあるのだろうと、結構探しましたが、見開きすぐのところに掲載されています。
こちらの記事もお読みいただき、「俗物」を手に取っていただく機会になれば、幸いです。

ミヤムの恋するcooking 宮村ゆかりさんの料理教室 in石瀬の家。締めくくりは、ラム肉料理教室。
ラム肉は、宮村さんが大のおすすめの北海道は東洋肉店さんのものを。

夜の部は、ラム肉を愛する多くの方が集ってくださいました。
今回は、デモンストレーション方式で、焼いたものをみなさんですぐに食べるとゆうことで、いろんな部位をいただきました。
私も食べることに熱中し、写真を撮り忘れているところもあるのですが、後ほど、改めて、私のデザインを一手に引き受けてくれている高橋トオルさんが撮影してくれた会場風景でお伝えしたいと思います。

こちらはラムのミンチをお団子にして、煮込んだもの。

こちらは、私もよくやる、逆ジンギスカン鍋。
銅鍋は、熱伝導率がよいので、脇で肉を焼き、中央に溜まってくる油で野菜を炒めることができます。銅鍋の特性を活かした一品です。

箸休めに、おつまみ蕗の薹も。

ラムチョップなどなど、さまざまなお肉を焼き切ったら、最後はチャーハンを。
こちらもラムの油とサラサラとしたバスマティライスが絶妙で、銅鍋で全体に日が通り、さらりと炒め上がりました。

ラム肉を食べると身体が熱くなる感覚を持ちました。そんなエネルギーが溢れているのかもしれません。
また、自分自身でも銅鍋とラム肉体験してみす。

福岡から来てくださった宮村さんには、二日間に亘り、さまざまなお料理を体験させてもらいました。時間があればつくり続けてしまうとゆう宮村さんには、またご来県いただきたいと思います。
その際には、また多くのご参加を心よりお待ちしております。

月1回ほど、突発!銅器づくり体験を開催してい石瀬の家。
時々、各種イベントも開催しておりますが、それ以外は、会場は訪れることができない場所となっております。
ご来場の際、道がわかりにくい場面もあるかと思いますので、地図と道順をupさせていただきます。

新潟市西蒲区石瀬の中でも、茶屋川とゆう地域になり、その名の通り傍を茶屋川が流れています。
そして、大きな道からの目印になるのも県道2号線沿いの野菜販売所「茶屋川」です。

新潟方面から来られた方は、県道2号線のこの信号を右折します。

その後、カーブミラーを過ぎてすぐの道を斜めに左折します。

茶色い大きな家が出てきたら、そこが石瀬の家。
手前が駐車場となっておりますが、駐車場に入れる際には、道幅狭いため、車を画像左のコンクリートに擦らないよう、くれぐれもご注意ください。

目印の野菜販売所は地元の方がつくられた野菜が販売されていたり、心地よい空間でコーヒーが呑めるので、お時間の余裕を持ってお立ち寄りください。
また、こちらのblogでは、石瀬の家周辺情報もupしております。合わせて岩室を楽しむきっかけにしていただけたら幸いです。

昨日、第1回目となる「突発!銅器づくりin石瀬の家」ご参加いただいたみなさんありがとうございました。
初めての開催とゆうことで、どんな雰囲気で進められるかと思っていましたが新潟市西蒲区岩室のゆったりとした雰囲気に包まれて穏やかで心地よい体験会となりました。
初めてお会いするみなさんも、木槌で形を整え、金鎚で叩き締め。その触感をじっくりと感じられていたように思います。

慣れてきた方は慣れてきた方なりに。今度はこうしてみようとゆうアイディアが湧き出てきてそれに対応させてもらえることも私の楽しみのひとつです。

とゆうことで突発!と言いながら早めの告知をさせていただきます。第2回目は3月4日土曜。
土曜とゆうことで泊まりがけで岩室温泉に来てもらっても良いかと思いますし。製作後に近くの日帰り温泉に使ってもらうのも良いかと思います。
この辺り含め石瀬の家周辺情報は、引き続きblogにてupしてゆきます。

第2回目「石瀬の家銅器づくり」
3月4日土曜の10時〜12時、13時〜16時の間の良いタイミングで。
普段私の銅器づくりで出る端材を活用する「豆皿づくり体験」を主軸として、小皿づくり、銅鍋づくり、真鍮のスプーンづくりなどなど、各種銅器づくり体験。
もし、「こんな銅器をつくってみたい!」とゆうご要望があれば、応えられる範囲で製作いただけます。
本格的な銅器づくりは、春の道場開設をお待ちください。
豆皿づくり 4,000円 60分〜90分
小皿づくり 4,000円 60分〜90分
小さい銅鍋づくり 10,000円 90分〜150分
大きな銅鍋づくり 14,000円 180分〜240分
銅や真鍮の端材計り売り
and more

まずは、参加できそうな方は、お問い合わせフォームより、ご連絡をお待ちしております。近辺には、岩室温泉や弥彦温泉もありますので、宿泊も含め楽しんでいただけたら幸いです。

石瀬地区には、歴史的な場所も多々ありますが、ほっと一息つける場所もあります。
その一つが、この「野菜販売所 茶屋川」さん。
仕事を引退された方が、ご自身で建てられたもので、地元の方々の交流の場所ともなっています。
しっかりとした建物の中には、地域の方々が育てた野菜の販売をメインに、コーヒーが飲めます。こちらのコーヒーも茶屋川さんのオリジナルブレンドで、1杯200円。

「石瀬の家」の整備中のホッと一息。イベント後のほっと一息。などなど、茶屋川さんでの時間は、ゆっくりと豊かに流れます。

野菜販売所では、ルレクチェやキューイフルーツ。銀杏や山菜、大根や白菜などなどの販売がされていて、お陰様で私の食卓も豊かになっています。
弥彦から岩室に抜ける、街道沿いにありますので、お立ち寄りいただき、ほっと一息ついていただけたら嬉しく思います。

野菜販売所 茶屋川さん
10時から15時
定休日 水曜・木曜

石瀬には、古を感じる北国街道が残っており、情緒を感じさせてくれます。
江戸時代、佐渡の金山銀山を運ぶための道として出雲崎までが北国街道として活用されていたようですが、新潟湊が整備されると新潟市内まで北国街道が整備されたとのこと。

その北国街道にあるお蕎麦屋さんが、「わた膳」さん。石瀬の家から車で6分のところにあります。
蕎麦御膳おすすめで、天ぷら、卵焼き、蕎麦寿司がつき、最後には甘味も。

松尾芭蕉や吉田松陰も歩いたと言われる、北国街道。
季節が良くなったら歩いて回りたいと思います。

旧暦新月を迎え、岩室の家(仮)も土地の名前をもらい、新しく「石瀬の家」と命名されました。
石瀬の地は、北国街道沿いとゆうこともあり、由緒ある風情を残しています。
その石瀬の近辺のおすすめの場所を、私なりにお伝えし続けたいと考えています。

第1番目は、私が時々参拝に訪れる弥彦神社を。
越後一宮とも言われる弥彦神社。私は旅の安全願に、日々の感謝をお伝えにと伺います。清々とした空気を持つ弥彦の地。この地域には新しくカフェも増えたりとゆっくりと過ごすには良い地域となっています。
私も、時々、リフレッシュするために数日温泉宿に籠り、頭の中を整理することもあります。

旧暦も新年とゆうことで、仲間と訪れたのは、石瀬から5分の岩室温泉街にある、秀石庵さんへ。
新年に相応しい料理の数々は、京都で修行されてきたご兄弟の腕前。
時間をかけてゆっくりと、美味しいお酒や楽しい会話と共に過ごす時間はエネルギーを与えてくれます。

すっぽんのスープも、上品に。

最後のそばがきまで、堪能させてもらいました。
美しいお料理は、ものづくりに欠かせない要素と私は感じます。今年も、さまざまな場所で勉強させてもらいたいと思います。
「石瀬の家」周辺情報第2弾も、またupしますので、御来家の際には、周辺も合わせて楽しんでいただけたら幸いです。

昨年発売した「俗物」をご覧いただき、69ページに現在の鎚起銅器の見取り図を、ツバメコーヒー田中辰幸さんがまとめてくれたものに関心を持ち、ご連絡をいただく機会があります。
ヘラ絞りとは、もっと具体的にどんなものか?と。

言葉で説明するのは難しいところがあり、動画を探していたのですが、金工の道具を買う際にお世話になっている、東京のシーフォースさんが、動画で上手にまとめてくれていたので、そちらをご覧いただくとわかりやすいかと思います。
荒川区の作家さんが、作業を細かく説明してくれています。

私は、一枚からの打ち上げを作業としていますが、同じものを同じように製作できるヘラ絞り技術は、鎚起銅器の歴史の中で重要な技術です。
燕市でも、惚れ惚れとする作業の職人さんが居られました。そして、どんな風に後世に受け継がれてゆくのか、とても関心深いものです。

鎚起銅器の本「俗物」は、引き続き発売中しております。

工房の在る燕市は、私が生まれた頃には、燕市、吉田町、分水町と3つの市町に分かれていました。今は、所謂平成の大合併で、1つの市になっています。
やはり、生まれ育った時の感覚は忘れがたく、燕市には工場としての街の雰囲気。吉田町にはそのベッドタウンとしての雰囲気。分水には、国上山があり良寛さんのイメージがったりと、それぞれの特色を打ち出していたものです。

そんな中、岩室の家(仮)の庭いじりを一緒にしているアトリエnicoの羽ヶ崎章さんからPatagoniaの記事を教えてもらい、旧分水町にある大河津分水に関心を持ちました。
大河津分水は、長野の千曲川からの流れを受けた、信濃川が越後平野に入る前に、分水路をつくり海へ流す要所です。
私の生業である鎚起銅器も、以前は農閑期の仕事から発展したと言われています。越後平野は水害に悩まされ、たくさんの経験を重ねてきました。その水害を克服するためにこの大河津分水はつくられたました。
その事業の経緯を学ぶため、川をこよなく愛する知人を訪ねて、大河津分水資料館へ。

曇天のこの空が、新潟の冬らしく。背筋が伸びます。

迎えてくれたのは、Love River Net 代表でもある 樋口勲さん。

先ずは、大河津分水資料館へ。
初めて訪れましたが、資料が充実し、新潟の歴史を知るためには必須の場所と感じました。そして、今まで先輩たちが語ってくれていた、鎧潟など、この地域の文化を感じられるお話が、ここで繋がりました。
新潟は、砂丘列がいくつもあり、江戸時代の海辺と、今の海辺では位置も変化しています。この砂丘列や山々に囲まれているために、越後平野はお盆状になり、水が貯まりやすい地形となっているようです。
そのため、今では隧道が海辺に向けて18本掘られており、古人の苦労と願いを感じさせます。

今では、米所と言われる新潟も、当時は水量が多く、腰まで浸かりながらの田んぼ作業だったとか。収量の少なさを大きい平野でカバーしていた。その水害が改善されたからこその、今の米所新潟なのかもしれません。

大河津分水の歴史を知ることは、越後平野の歴史を知ることに通ずる。
大河津分水ができた切っ掛けは歴史的な背景が濃厚だとゆう話に納得しつつ、多くの地元の方々の請願があったことも大きな要因だと感じます。請願活動のため財産をなくし、この地を離れざるをえなかった方々もおられるとか。
横田切れとゆう大きな水害が明治29年7月にあり、その後も毎年のように同じ場所が水害に合い水が引かないとゆう憂き目。
それを改善するために、地元の方々の願いと、政府の思惑が一致し大河津分水の工事も始まったようです。

大河津分水の工事は何期かに分かれ、このお話しをお聞きする中で、技術力と歴史の相関性を感じさせてます。もし、第1期目の手作業の工事が中止され、今現在、大河津分水工事と言われている第2期の工事が再開するまでに、日本が世界と渡り合ってゆく歴史背景的に技術力の格段の進歩がありました。
ネット時代と言われる今も、その時代時代の技術力と世の動きの連動の見方がとても重要だと思います。

この工事で登場する3人の帝国大学を主席で卒業した男たち。私は、樋口さんのお話を聞いて、この3人のお話しにとても感動しました。
一般的に知られていたり、一般的に流通している話と共に、地元で話継がれていることに、大きな魅力を感じます。
この大河津分水の設計者として赴任した、岡部三郎さんは自在堰とゆう新しい堰の形に取り組みました。ネイティブアメリカンの熊罠を参考にし、水圧で堰が動くとゆう仕組みを採用し着工されました。
しかし、この堰が完成された頃に、岡部さんは他のところに赴任することになり、「この堰の前後には石を敷き詰めなければ、川底が削れてしまう。」とゆう言葉を残しながら去っていったとのこと。
しかし、その後の財政状況などにより、その言葉通りにはならずに、結果、この自在堰は崩れてしまう形になってしまいました。

その後、大河津分水工事の後を受けたのが、青山士さん宮本武之輔さん
青山さんは先の記事にもでてくるように、パナマ運河の建設に深く関わった方。それも国からの補助を受けて外国に赴いたわけではなく、内村鑑三さんのお話を聞き、自分の意志で渡ったとのことです。

地元に伝わる話を樋口さんが伝えてくれたのですが、青山さんは堅物。宮本さんは遊びを知っている人で、この二人のバランスで、地元との共同作業である分水工事も進んだとのことです。
その宮本さんは、岡部さんとの親友とのことで。親友の汚名を晴らす為に、きっと相当な覚悟を持ってこの工事に携わったのではないかと、私は胸が熱くなりました。

青山さんの理論と実践を地元の方々に理解してもらうため、宮本さんが地元説明のために作った模型が今でも残っています。
この模型を持ちながら、前回の自在堰で良い思いをしていない地元の人と、どんな話で理解をしてもらったのか。宮本さんは、地元の方からの酒宴の誘いを断らなかったと日記に残っているようです。

大河津分水資料館の4階には展望室があり、分水路がぐるりと見渡せます。
この工事に幾万人の人が関わったのか。

そして、実際の堰たちを見に外へ。

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もう使われなくなったとはいえ、やはりこの歴史を感じさせるものが遺っていると、様々に想像は膨らみます。
今回、樋口さんに教えてもらったことが、ここに実際にあり、歴史の変転の上で想いが形になったり、ならなかったり。
そんな中でも諦めずに形にしてきてくれた先人を感じる時間となりました。

最後に、青山士さんの言葉が刻まれた碑。
この碑は、自在堰を移築してつくられたものとか。そこにもそれぞれの人の想いが形になっていることを感じます。
「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」
パナマ運河工事を経験し、この地に取り入れてくれた青山さんの想い。
世界共通語の試みであるエスペラント語で訳されていることで、青山さんの想いも一層深く汲み取れるのではないでしょうか。

このような貴重な施設が、自分の街に在ることで、先人の経験や想いを伝えてもらえる機会があることの重要性を感じました。また、ここには登場していない幾人もの方々の想いが、大河津分水に集っているのでしょう。
これから、この分水路がどんな形で未来に託されてゆくのか、今この新潟に住む者としてもしっかりと見据えてゆきます。
大河津分水資料館
燕三条へ来られる機会がありましたら、是非、足を運んでいただけたら幸いです。